昭和四十八年六月十六日 御理解第六十節


 「おかげは受け徳 受け勝ち」


 いろいろに頂けれる御理解だと思います。受け徳と仰るのですから、とにかく信心させて頂いてお徳を頂いた者には勝てん。お徳を受けた者が勝ちだと云う風にも頂けます。もうお徳の前にはどうにも仕様がない。信心してお徳と云うおかげを受けること。それが一切のおかげも徳に付いて来るもの、伴うて来るものですから、そういう意味で本気でひとつ徳を受ける信心をさせてもらわななりませんが、お徳を受ける迄の信心、そこんところを受け徳受け勝ちと云う様な頂き方をさせて貰わにゃいけん。
 昨日は丁度お昼親教会から電話が掛かってきました。一時半頃から先代の式年祭の打ち合せ、委員会をしますから先生方だけ寄って頂きたいからと云うことであった。
 昨日は丁度霊祭を一時からさせて貰うようにしとりましたから、それを仕え終らせて頂いてその足で参りました。丁度参りましてまだ具体的な話になっておりませんでしたから、もう行きがかりに私はお話させて頂いたことですけれども、もう最近のように私は体がこんなに自分でも弱ったと云うことを感じるですから、四十年の式年は今年仕えられますけれども、次の四十五年とか五十年の式年祭に私がこの世におるやらおらんやら分からん。いやそれを本当に実感する。ですからもう、悔いを残さんように本気でね、いわゆる自分の心に持てる真心をそれこそ今度のお祭りにかけたいと云うことをお話したんです。又事実そう思ってますから。
 ですからね、そういう生き方に一人がなりますとね、もう話はトントン拍子ですよ。もう解決致しますね。
 例えば仲々経費のそれが立ちにくかった。例えばもう偲び草でも先生方と御親戚だけでも丁度五十有ります。それをその前の式年祭では私が一ノ瀬にひと釜抹茶茶碗を焼かせました。そん時が丁度一千五百円かかりました。だから今年は倍位のものをしなければいけないだろうと云うことで三千円から三千五百円位な見当で作ることにしました。
 それでもう早速藍胎漆器なんかがよかろうと云うことで見に行こうと云うことになりました。一般の偲び草はこの前は短冊でしたから、今度は親先生あなたがお書きなさいませ、あなたが何か書いて頂いたものを今度は色紙にして皆さんに贈ろう、それも見当ですけれども、この前は百円位だったけれども、百五十円から二百円位のがよかろう、これは三百からのもの。
 お供えだけでも四十八台あります。神様と霊様と奥城と致しますから、それもこの前はいくら幾らの見当であったからその丁度ちょっと倍以上になります。それはそうさせて貰いましょうと。 そういうこちらの腹が出来て云うのですから、もう誰も反対する者もなからねばまあトントン拍子でおかげで何からなに迄話が出来ました。
お祭りの楽人なんかももうわざわざ久留米の楽人さん達に言わずに合楽でよかったらおかげ頂こうと云うことになりましたから、それももうそれこそ、抵抗無しで男の楽人さん方は勿論、それから全部楽員を合楽からと云うことになりました。営繕の方も少し残っておるところを、この話が丁度一年前に起こりました時に奥城の中に雨が漏っておりましたから、これを今度の式年祭に御用させて貰わにゃならんと云う話が出ましたから、もうその翌日には完成しました。一年前に・・・・中がもう全部総桧作りになりました。中にはもう見事なシャンデリヤがついております。
 と云う様にですね、私はそういう意味の事をね、私が御用頂くと云うことを皆さんに吹聴したり自慢して話すと云うのじゃなくてね、今日私はここを頂いたから、おかげは受け徳受け勝ちと云うのはそういう事だと思うのです。
 どうでしょうか。それは親先生ああたが今出来なさるから出来るけれども、いくら出来たっちゃ、いくら有ったっちゃせん者はせん。けれども私共はそれを本当におかげ受け勝ちだと思っておりますから、だから楽人さん方にはお礼をこうこうしてと言われるから、私はそれを断わりました。折角おかげを頂くのですからそげんしよるとかえっておかげを落とす。だからもう合楽の場合はそういう事お考え下さいますなと申しましたけれども。
 いや、それはやっぱ楽人さんはお礼せにゃいけんと云う話が有りよりましたけれども、私の生き方はですね、折角おかげ頂くのですから向こうからお返し貰ったんじゃ、それだけ減るような感じがする。
 これは私のもうそういう信念です。いわゆるおかげは受け徳と云うことはそういう事だと思う。
 そんなら今がおかげで段々出来るようになったからと云うのではなくて、もうそれこそあの記念祭の時には自分の持って居る着物の全部を売ってからでも御用頂いた時代が有るのです。いわゆるおかげは受け徳だと思っておるから、もうそれこそ借金負うてからでも、もおかげは受け徳だと思うておるから。 
 昨日の御理解じゃないですけれども、今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ。どういう事に目覚めなければならないか、私共はこの世にお役に立ちに来ているんだ。この世にはいよいよ有難くいわば限りない魂の清まり、魂を清めげに来とるのだ。
 そういう例えば、信心の、どうして信心をさせて頂かなければならないかと云うその根本のところが分からせて頂くと、この事一つを明らかにする為にこの世に生を受けたんだと云うことがハッキリすると飛び立つばかりの喜びが湧いて来るものです。
 その飛び立つばかりの喜びでおかげは受け徳だと云うことになる。 例えば親の式年のお祭りをする。何か厄介事の様な、云うならば何か片付け事のような気持ちでするのではなくて、もうそれこそ飛び立つばかりの思いでそれが出来る心の状態を日頃稽古しとる。

 昨日は田主丸のむつやのおばあちゃんの式年祭でした。今月は丁度あちらの謝恩祭の月になってますから謝恩祭に併せてと云うことであった。
 私もそげんがよかろうと言うとったけれども、今頃秋山さんの所へお祭りに行った時に併せての霊祭を、あそこも式年でしたからさせて頂いた時にお気付き頂いたことを思うて、私がそれを取り止めさせました。二荷一荷じゃいかんと云うことを頂いたから・・・
 これは霊祭は霊祭、謝恩祭は謝恩祭としておかげを頂かにゃいけんよ。しかも式年だから、しかもむつやの信心の草分けと云うか、一番元を取って下さったおばあちゃんの式年でもあるのだからと云うので、昨日わざわざ孫達がみんな集まって本当に真心いっぱいのお祭りが出来ました。
 云うならです、もうそげんすることはいらん、この位でよかろうと云うのじゃなくて、やっぱり昨日の御理解じゃないですけれども、尊ぶとか相手を拝むとかとこう云うが、拝む者は拝まれる。尊ぶ者は尊ばれる。その尊ばして頂く者の中でもそんなら先祖を尊ぶと云うこと。一番近い先祖をまあ信司さんの場合はおばあちゃん霊様ですから、それを尊ぶと云う意味で奉仕させて頂く。
 してみると、千円のお祭りを仕えるよりも一万円のお祭りをした方がおかげは受け徳受け勝ちと云うことになるのじゃないでしょうか。
 そういうここではおかげは受け徳受け勝ちと有りますから、けれどもおかげは受け勝ちでありそういう受け勝ち、しかもそれは飛び立つばかりの喜びをもってそれがなされる時に、それが徳にならない筈はない。受け徳にならない筈はないと思うです。
 こればかりはね、自分の思いをいっぱい出来るだけの表現をもってする事なのですから、しかもそれを分からせて貰うことの為に、私共はこの世に生を受けておるんだと云うことがです、分からせて貰う。
 この世には苦労しげに来とるとじゃない、この世にはいわばお役に立ちげに来とる。そのお役に立つと云うその中身がです、清まっておらなければ美しゅうなっておらなければ、研かれておらなければ魂が、その清まった魂をもってお役に立たせて頂くと云う事。
 この世にはだから徳を受けげに来とるのだと云うことになるのじゃないでしょうか。
 成程これは、おかげは受け徳 受け勝ち

 夕べ夜中にここにお礼に出らして頂いてから、今日善導寺の教会でのいろんな事柄をずっとこう思うてみてから、これは調子に乗りすぎたんじゃなかろうかとちょっとふと思うてみた。そしたら神様からね「日頃の御無礼のお詫びのしるし」と云うことを頂いた。
 例えて云うなら、さあー式年祭だからつういっぱいと云うのじゃなく、いつもかつもが本当はつういっぱいでなからにゃならん信心とは。年に一回づつ帰幽祭と云うのが有ります。いわゆるお立ち日、それでもそんなら別に思いは同じでなからにゃいかんのだけれども、仲々そこは人間ですから出来ません。
 そこで五年五年の式年の時だけなりと、と云うのが。ところが信心の私の生き方でいうと、記念祭もなからなければ帰幽祭もないと云うことになる。けれども、実際は記念祭の時の様には出来ていないからです。そういう日頃は出来ていないそのお詫びのしるしにと思うたら、まだ足らんごたる思いがしきりにさせて頂いた。
 成程これは調子に乗りすぎて、あれも引受けこれも引受したのではないと云うことが分からせて頂いた。
 そこに私はいよいよ飛び立つばかりの喜びで御用させて貰う、奉仕させて貰うと云う心がいよいよ極まってきた。
 皆さん、おかげは受け徳 受け勝ちなんです。
 例えばそんなら、十三日会なら十三日会に御用に見えます。お参りをしてお話を頂くと云うことだけでもやはり受け勝ちです。
 けれどもその日は少しでも神様に喜んで頂くような御用でもさせて貰うてと云うのですから、草の一本もむしらせて頂こうと一時間御用頂くよりも二時間、二時間頂くよりも三時間。 今度は八時ちょっと前に見えられた方が何人か有りました。十三日会の日に・・・もうはまってもんぺばきで見えておられました。
 只云うなら言い訳の様にちょっとエプロンはめてからどこかこうこう拭いて、もう今日は御用頂いたとそげな事じゃ馬鹿らしかです。おかげは受け徳受け勝ちなんです。一時間よりも二時間おかげを受けさせて貰うた方がだから受け勝ちですから、それに伴ったところのお徳もやっぱりそうでしょう。もう本当に私はこの精神にね、いつも燃えておかなければいけない。出来るから出来んからと云った様なことじゃない。もう出来んでも出来させて頂くと云うことがです、いわゆるおかげは受け勝ちなんです。
 今日はそうい意味でおかげは受け勝ちと云うことを聞いて頂いた。だからそれには受け徳、徳が伴うて来ない筈が無い。そういう生き方の上に。そういう風に今日はおかげは受け徳受け勝ちと云うことを聞いて頂きました。 どうぞ。